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2009年03月20日

財団法人 松声会

私が所属する団体の1つに、財団法人 松声会があります。

財団法人 松声会は、師家である井上家に師事する一門
(玄人・素人含む)などにより形成されており、
能楽堂『嘉祥閣』の維持と、能楽の普及・発展、
及び後進の育成を目的として昭和35年に設立されました。

先月HPができました。
http://www.kashokaku.jp

お時間ある時にご覧下さいませね!
  


Posted by 吉田 篤史  at 15:13Comments(0)能楽の話

2007年11月18日

供養の謡

残念ながら行方不明であった方は還らぬ姿にて発見されました。

お悔やみ申し上げます。

と共に供養の謡をここに記させていただきます。

『これに就けても後の世を。
これに就けても後の世を。
願ふぞ真なりける。
砂を塔と重ねて黄金のはだえこまやかに。
花を佛に手向けつつ。
悟りの道に入らうよ。
悟りの道に入らうよ。』
謡曲『卒都婆小町』より
  


Posted by 吉田 篤史  at 20:22Comments(0)能楽の話

2007年06月27日

能楽の歴史1

前に『能楽の始まり』について書きましたが、
この頃の能楽がどう大成していったのか、
ちょっとずつ書いていきたいと思います。


1333年鎌倉時代の終わった年に清次(観阿弥)が、
山田猿楽美濃大夫(家元にあたる)の養子の三男として誕生します。

兄は宝生大夫と生市。

猿楽とは平安時代より流行した芸能で申楽とも書き、
元々物真似や曲芸などの芸能の総称でした。

そして猿楽の人気が高まるなか一座を構えるようになり、
社寺の庇護を得て祭礼などにて芸を披露するようなります。

そこからその社寺の由来や神仏の大切さを伝える為に、
寸劇として発展したのが猿楽の能ができました。

また楽とは簡単にいうと楽器を使う芸能の事をいいます。

観阿弥も始めは翁を行う春日若宮関係の団体として、
結崎座という座を構えました。

そして1368年に観阿弥が新しい音曲を謡った事により、
一世を風靡します。

いろいろな社寺で猿楽能を行うようになり、
1375年今熊野にて猿楽能を興行したおりに、
時の将軍義満公が見物され絶大な後援者となられます。

義満公18才、観阿弥の息子元清(世阿弥)11才の時でした。

これにより猿楽の能は急速に発展していきます。
  


Posted by 吉田 篤史  at 00:48Comments(0)能楽の話

2007年06月09日

『能楽』と『狂言』

さる方様からのメッセージに触発?されてまたまた真面目な話。

今日は能楽と他伝統芸能との違いについて。

まずは『能楽』と『狂言』の違いから。

一般の方からするとこの違いはわからない方多いようです。

何が1番違うかと申しますと物語の構成が違います。

能楽はシリアスな物語を主体とした劇です。

狂言は喜劇です。

話の内容が正反対なほど違うわけです。

昔能楽は1日5番立てで行われていました。

1演目1〜2時間、それ×5演目ですから、5〜10時間。

朝から晩まで演じられていたわけです。

皆様お忙しいでしょうから朝から晩まで、
劇やテレビドラマをずっと見る!なんて方は少ないと思いますが、
仮定の話として想像してみて下さい。

シリアスなドラマをぶっ通しで5つも見れるか!という事を。

実際に見たら精魂尽きるぐらい疲れてしまいます。

ですので1演目1演目の間に寄席的な感じで狂言を挟み、
お客様に笑っていただき1度緊張を解いてから、
また新たなシリアスな劇に入ってもらう!
というような形で能楽と狂言は常に一対として行われて参りました。

という事で巷に狂言師という言葉がありますが、
本当の正式名称は能楽師狂言方です。
  


Posted by 吉田 篤史  at 09:31Comments(0)能楽の話

2007年06月06日

能楽の始まり

今日は珍しくも真面目にいこうと思います。

私の所属する観世流では1年に2度全国で修行している内弟子を、
東京にて一同に会し研修会という名にて、
お家元以下観世流の重鎮の皆様に、
いろいろと教えていただく会があります。

その中の講義にて表章様にお教えいただいた事を参考に、
能楽の歴史について考えてみます。

歴史といっても650年以上の歴史ですから膨大な量になるので、
まずは初期の歴史でいったい能楽は何年にできたのかを考えます。

1333年鎌倉時代の終わりに観阿弥は誕生。

1349年田楽能・猿楽能という言葉が初めて文献に出語。

1364年世阿弥誕生。

1368年観阿弥が曲舞を取り入れる。

1375年観阿弥・世阿弥京都今熊野にて猿楽能を興行し、
足利義満がそれを見物しその後絶大な後援者へ。

この辺りが始まりといえます。

といっても今の能楽とはだいぶ違う物であったと思われます。

で、この中でどこを始めとするかは意見の別れるところでしょうが、
私は今まで発見された文献の中で能という言葉が初めて出てきた、
1349年で考えています。

という事で650年とちょっと。

この日本という国の歴史は本当に凄いものだと思います。
  


Posted by 吉田 篤史  at 23:46Comments(0)能楽の話

2007年05月25日

同研能

明日の『同研能』が京都の催しで無料という事もあり、
お越し下さる方がいらっしゃるので、
同研能の事について書かさせていただきます。

同研能は同研会という会が主催しており、
師家である井上家に師事している門下の玄人である、
若手6人によって主催しています。

なぜ無料なのかというと会の名前の示す通り、
6人が自分の研鑽の為に主催しているので、
利潤を求めた催しではないからです。

また若師・井上門下の先輩方に弟子・後輩の研鑽の為、
ボランティアにてお手伝いいただいております。

といっても印刷代やお囃子方・ワキ方・狂言方には、
些細とはいえ謝礼を支払っているので、
そのお金に関しては自腹で支払って行っています。

という事で無料なのですが出ている演者は全員玄人ですから、
あまり宣伝はしていませんが無料で見られるのは、
お客様にとっておいしい(笑)催しです。

また明日は能だけでなく舞囃子と狂言があります。

舞囃子をお舞いになるのは師家の御曹司がお舞いになります。

まだ高校生で初々しい舞いが見られる事と思います。

更に狂言もあります。

狂言方も若手育成の為ボランティアにて行われます。

盛り沢山ですので是非お越し下さいね!
  


Posted by 吉田 篤史  at 21:24Comments(0)能楽の話

2007年04月28日

湊川神社


湊川神社神能殿の地図はこちら
今日は神戸の湊川神社神能殿(中央区多聞通3丁目1)で、
井上同門定期会でした。

この湊川神社神能殿はほかの舞楽殿や神能殿に比べ、
物凄く立派で完全な能楽堂仕立てになっております。

この神能殿を建てるにあたり、
観世流の能楽師や鹿島建設の力がなければ、
建つ事は叶わなかったと思います。

では、なぜ観世流が?

なぜ鹿島建設が?

という事を説明いたします。


湊川神社の御祭神は楠木正成公(大楠公)です。

能楽の始祖は観阿弥・世阿弥です。


生家は伊賀の服部家です。(あの伊賀の服部家です。)

観阿弥の母上は大楠公の妹でした。

勿論当時伏せられていました…。

この事は観阿弥の祖父家にあたる上島家の古文書、
『観世福田系図』によって明らかになりました。

ですが観世福田系図は改竄された物として発見された当時は、
歴史上受け入れられなかったのですが、
播磨の名門永富家の古文書によって意見が覆りました。

永富家は鹿島建設創始者、故鹿島守之助の生家で、
何十代も前の永富恵仁が観阿弥の父服部元就と兄弟でした。

こういった縁戚関係から湊川神社の神能殿を建てるにあたり、
尽力をつくされたわけです。


皆様も血縁を大切にしていきましょう!(笑)  


Posted by 吉田 篤史  at 16:56Comments(0)能楽の話

2007年04月06日

能楽の起源

さる方に能楽の起源は?と尋ねられたので書いておきます。

元々、能の意味は歌舞劇全てを指します。

元々、楽の意味は楽器を用いた音曲を指します。

それがいつから今の能楽の名前になったかというと、
7世紀中国より渡って日本のできた芸能・伎楽と、
奈良時代に大陸より渡ってきた散楽が元とされています。

散楽は歴史の中で古来の芸能の影響を受け、
物まねなどの笑いの芸や寸劇に発展していきます。

そしてそれを猿楽というようになります。

平安期以降他に神道行事の芸能の田楽、
仏教の寺院で行われていた延年の芸能や白拍子などがあったのですが、
室町時代に観阿弥・世阿弥が他の芸能を取り入れた猿楽の能を行い、
足利義満が鑑賞した事により武家社会にて保護されるようになりました。

この猿楽の能が室町以降安土桃山時代を経て江戸時代には、
式楽(公式の楽劇)となり武家社会の一般教養となりました。

また能の文句を謡う事を謡というのですが、
これも一般民衆の教養として用いられてきました。

その猿楽の能が明治時代に他の芸能と区別する為に、
能楽や能と呼ばれるようになりました。

歴史を振り返ると尚一層頑張ろうと思う活力になります。  


Posted by 吉田 篤史  at 13:33Comments(0)能楽の話